倫理と安全

2月 2nd, 2007

フィリピン政府が移植を前提とした腎臓売買の事実上の公認に向け動き出した。
内容は、
外国人患者に〈1〉腎臓提供者(ドナー)への生活支援費〈2〉別のフィリピン人患者1人分の移植手術代を支払わせる。
ドナー生活支援費などが1万2000ドル(約144万円)、フィリピン人患者の移植代が円換算で96万~120万円相当とされ、外国人患者の手術・入院代とあわせ、外国人患者は総額5万ドル(約600万円)を支払うことになる。仕組み全体は政府が管理し、ドナーは民間のドナー支援団体「腎臓財団」を通じて生活支援を受ける。
と、いうもの。
600万という金額、日本は勿論、先進国にとっては、命を延ばしたいという代償には惜しくない額であろう。
現に今でも、闇でフィリピンに限らず実質的臓器売買は多く存在する。
この制度が導入されれば、世界中から腎臓を求めて人々が押し寄せるかも知れない。
自分にあったドナー(いや体)を探し買い取る。
なんだか、映画『アイランド』を観る想いがした。
それに医療技術、感染など医療的な懸念もある。
倫理観、安全性。せめてもの節度を保とうと政府が主導するのだろうか?


2 Responses to “倫理と安全”

  1. 福餅 on 2月 3, 2007 1:18 AM

     臓器売買は非常に難しい問題です。これに国民性や宗教などが入り込むと余計に複雑になります。
     昔の日本で、血液銀行という制度がありました。いわゆる「血液を売る」ところです。当時はこれで良かったのですが、問題が起きた今では、血液銀行の制度はありません。献血と名前を変えて、日本赤十字が取りまとめています。献血に関しては、日本国内では「当たり前」との社会事情ですが、ある宗教によりますと、「血液には魂が宿る」と言って、輸血を拒否する団体もあります。国民性や宗教観でいろいろな解釈が出来るものです。
     フィリピンでは日本の献血と同じ感覚で臓器売買をするのかも知れません。私はフィリピンの国民性が判りませんので、否定も肯定も出来ませんが、日本人的感覚で言いますと、臓器売買はちょっと「違う」と思えます。血液はある程度栄養補給をしていれば、後で補填できますが、臓器は一度提供して仕舞いますと、そのままでは元に戻る事はありません。それでも大事な人であれば、私は提供しても良いとは思っています。但し私の様な老人のくたびれた臓器など欲しい人は居ないでしょうけど・・・。
     フィリピンでの臓器売買に政府が乗り出すとは、かなりヤミでの取引があったものと思います。これをヤミに隠したままで、勝手な事をするより、政府が認めてその技術や結果などのデータを集めた方がメリットがあると判断したのでしょう。
     600万円という金額は、フィリピンの国民にとってはかなりの高額です。もしかしたら家が買えるぐらいの金額だと思います。
     日本に出稼ぎをして、500万円持って帰国したパキスタン人の報道がありました。彼は自転車の工場を建てて、成功した人物として紹介されていました。パキスタンでは「勝ち組」になります。
     フィリピンでも600万円あれば、何か事業でも始められるかも知れません。外国人労働者を受け入れ難くなった日本では、出稼ぎは難しくなりました。外貨獲得には臓器売買が手軽かも知れません。
     私には理解に苦しむ政策だとは思いますが、これが国民性の違いだと思います。

  2. ケラ on 2月 3, 2007 7:24 AM

    フィリピンは、貧富の差が激しい国ですから、どこを平均というか?ですが、日本の平均的な生活をしようとしたら金額としては半分くらいでしょうか?
    それに、文中にも書きましたが、臓器提供をした人には約144万円しか渡りません。
    まあ、年収分といったくらいでしょうか?
    でも、この臓器を売る人たちにとっては10年分くらい。かなりの大金になると思います。
    現在の闇取引では中間搾取が大きく、本人には、10~20万と聞いたことがあります。
    それからみると多額のお金を手にするといえます。
    フィリピン、中国などのアジアのこのような闇取引。
    そうでもしなければお金を手にすることが出来ない現実、不正に多額のお金を手にする仲介業者。これらに対抗するためには?とは思うものの、考えさせられますね。

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