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自殺
11月 13th, 2006
いじめを苦に自殺。
いじめを隠したことに責任を取るという自殺。
ウソの報告がばれたことで自殺。
自殺のニュースで一杯のこのごろ。
自殺大国の日本。死んで名誉を晴らす、死んで責任を取るという文化によるものといわれてきたが、このごろは少し変わってきたような気がします。
以前は、残された人、組織を救うための死。
のこされ人への配慮があった死だったと思うのです。
そのような文化は確かにあったと思う。
でも、今は短絡的であり、逃避型、気分的かも?とさえ思わせるほど、簡単に死を選んでいるようにさえ見えます。
それに、子供の自殺の急増は、少子化対策より、生きる力を、生きられる社会をがまず先決のようです。
生きる力を身につけるというために始まったはずのゆとり教育、総合学習は、生きることを自らやめる子供と、教師を増やしてしまったようです。
2 Responses to “自殺”
私は自殺に関しましては、クールに考えています。或るマスコミでは自殺を美化する報道をしていますが、私個人としては、自殺は単なる「迷惑」だけです。それより「死ぬ気になれば何でも出来る」と考えています。これには反論もあるでしょうが、単なる逃避であって擁護するべきではありません。
昔は「切腹」という制度がありました。これは名誉ある死に方ですが、死刑の形と考えられます。死刑にはいろいろありますが、腹を切れる死罪はまだ良いかも知れません。
さて、履修不足の罪として、日本では死刑になる事はありません。責任は別の方法でとるべきと思います。単なる「迷惑」にならないように。
最近は「いじめ」による自殺もありますが、私の幼少の時には「いじめ」での自殺は聞いた事がありませんでした。もしかしたら「いじめ」の自殺は隠していたのかも知れませんが、それでも数は少ないものと思います。
「いじめ」の形態は、昔と今とでは随分変わってきました。私が幼少の時の「いじめ」とは、団体で一人をいじめたとしても、必ず一対一でした。全員で一人を同時にいじめる事はありません。他の連中はギャラリーとして、傍観するだけでした。またいじめている者がエスカレートしますと、誰かが「もうこの辺で・・・」と言って止めたものです。「この辺」のラインは自分達でひいて、そのラインを越えない様にしたものです。
私の二番目の豚児♀が、小学校の時に「いじめ」の遭遇した事がありました。毎日いじめられて、「学校に行きたくない」とこぼしていましたが、それでも無理して学校に行ったものです。6年生の2学期だったので、「もう少し頑張れ」と言って、何とか卒業まで持ち応えました。
その時に感じた事は、いじめる方にも切っ掛けがありますが、いじめられる方にも原因があります。この原因が取り除けない限り、「いじめ」がなかなか終わらないものです。いじめる方だけを責めるのも、何だか違う様な気もします。
幸いにして豚児♀は、卒後私立中学校に行きましたので、今までの出来事はリセットしました。いじめた児童を責める事もしません。また豚児♀の「いじめ」が発覚してから、私が出来るだけ面倒を見て来ましたので、高校3年になった今でも、一緒に寝たり、一緒に買い物に行ったりしています。
この場合は、私が豚児♀の心の拠り所となった様です。困った時には母親を頼らずに、私に相談します。18歳になった今では、私の願いとして、独り立ちが出来る様になって欲しいとは思いますが、私を頼る間は私が面倒を見なければなりません。特に受験期に入っていますので、精神的に不安定な時ですので、よく観察する必要があります。この密接な親子関係と観察でかなりの自殺は防げると思います。
自殺する前に、周囲の人たちが逃げずに向き合う社会にしたいものです。履修問題も校長に責任を押し付けるのではなく、皆で話し合いをするべきです。一人を責めてはいけません。皆の問題として対処する必要があるでしょう。
とまらない連鎖、困った問題ですね。
とてもいいお父さんですね。
ただただ感心するばかりです。
いじめ・・・
前にもココで書きましたが、昔とは傍観者が変わってきたと思っています。
福餅さんもおっしゃるように、
「またいじめている者がエスカレートしますと、誰かが「もうこの辺で・・・」と言って止めた」
これが今はなくなったと思います。
決して、「他の連中はギャラリーとして、傍観するだけ」ではなかったと思います。
親子関係で、多くのことは防げるのかもしれませんが、でも、死でけじめや責任を取ろう(もしかしたら逃げたのかもしれません)とした大人に教育してほしくないと思います。