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履修不足
10月 26th, 2006
昨日から日本中が大騒ぎしている「高校履修不足」
時間と共に該当学校が増えている。
でも・・・これって公然の秘密っていうか、教育委員会も、県も、みんな知ってたんじゃないだろうか?
だって。これだけ多くが生徒が塾に行っている時代。
塾の教師は選択科目や受検科目、いや。定期テストの結果や問題、成績も把握しているはず。
有る意味受検、学校のプロである塾が気がつかないはずはない。
それに県だって教育委員会だって、何年も誰も疑問に持たないはずがないじゃない。
大学進学率が低い県ほど、この履修不足が多かったことを考えると、なんとなくね・・・
多いところでは210コマ(50分授業)も足りない学校があったとか。これって、受験生には酷ですよね。
そもそも、受検科目しか勉強しないとか・・・その考え方がおかしいでしょ。
世界史だって、このグローバルな時代、それぞれの国も歴史的背景が分からないと理解できない。
また、家庭科、音楽などをけづっていたところもあったらしいが、小学校で「総合学習」とかでこの手のことを多くやって、学力落として、高校であわてて他削って受検に対応させるってこと?
これが今の日本の教育なんですね。
4 Responses to “履修不足”
もし私が総理大臣になったら、最初に手掛けるのは教育改革でしょう。
日本は石油が殆ど出ない国です。つまり地下資源の乏しい国で、外国に売るモノがありません。その日本がどうして経済大国として成り立っているかを考えますと、形にならないモノを売っていると思います。
この形にならないモノとは、技術と発想がこの日本を支えて来たものです。この技術と発想とはズバリ人材以外何ものでもありません。この人材を粗末にしますと、日本は衰退して仕舞います。
そこで今子供たちに必要なモノは、教育と考えています。「ゆとり教育」は必要ありません。現に「ゆとり教育」の結果が、学力低下に結び付いています。私の時代は団塊の世代より少し後になりますが、大学は今より「狭き門」でした。また或る程度成功した団塊の世代の先輩方と話をすれば判りますが、今の若者よりかなり勉強しています。その影響かも知れませんが、私の時代にも「詰め込み教育」と称する無理な教育をしたものです。この「詰め込み教育」が今の経済を支えているとすれば、「ゆとり教育」の若者は、経済を支える事が出来ません。
ただ、残念な事に、今の大御所と言われる大家の先生方は、若者の成功を喜ばないものです。自分より偉い人物が出現しますと、自分の地位が脅かされるとの考えからだと思います。この副産物の一部が、オウムの様な若者の団体を作り上げたと考えられます。
オウムは若者の研究に資金や施設などを提供していました。また若者の成果を認めていました。最終的にはあまり褒めた行為はしていませんでした。
「ゆとり教育」になった原因は、若者が凶暴性を帯びてきた事から始まります。勉強だけでなく、人々の繋がりや情緒的な事を若者に知って欲しい事から、始めた制度と聞いています。
ところが「ゆとり教育」を始めても、若者の凶暴性は拍車がかかるばかりです。私の考えでは「ゆとり教育」は不要と考えています。今まで通り「詰め込み教育」で、技術や発想を磨くのが日本人の美しいところです。
ある中学教師の話では、ホワイトカラーとブルーカラーを分別していると言っています。今の制度では、経済力のある家庭では、塾や家庭教師に頼って学力を向上させようとしています。また学力の不要な子供は、体力を作ればそれ以上のものは必要ない制度です。
現実問題としては、「出来ない生徒」が「出来る生徒」の足を引っ張る形となっています。これでは「出来る生徒」も「出来ない生徒」になって仕舞います。
この場合は「勉強クラス」と「体力クラス」に分ける必要があります。これは差別ではなく、区別と言っておきましょう。またクラスを分けるのではなく、学校自体を分けるのも一案とも思います。「勉強学校」と「ゆとり学校」との形です。
私の一番上の豚児♀は、公立中学に通学しました。この中学はかなり荒んでいて、警察問題を何度も起こしています。卒業式には私服警官が配備されて事なきを得ましたが、これでは学校ではなく、野獣の集合体と思いました。また学力より体力を重視して、部活動は殆どが運動部でした。文化部と言えば「茶華道部」「美術部」「吹奏楽部」の3つしかありません。また運動部の一部には、授業前の早朝練習(朝連)と、授業後の練習(午後連)の1日2回練習していました。
学校とは文字の通り、学ぶ所であって、部活動をする所ではありません。部活動は余暇です。また朝連と午後連の1日2回の練習は、常識範囲外と先生に言った事がありました。ところがその先生は、話の途中で退出したり、「この話し合いの時間外手当ては出ない」と言ったりで、全く話になりませんでした。また教師が私に向かって、「早く帰りたいので、こんなくだらない話をするな」の様な意味合いの事を言っていました。これは教師としてダメな者ではなく、人間としてダメな者と思いました。
これに懲りて、次の子は私立中学に通わせる事にしました。私立中学の教師は給料の事を口に出す事はありません。また「いじめ」に関しましても、真剣に話し合います。父兄が話している時に中座する事もありませんでした。
教育に関しましては、私なりの意見がありますが、これはほんの一部の例です。教育に関して私が意見を述べますと、膨大な量の例がありますので、これぐらいにしておきますが、やはり私立学校は授業料を払った以上の価値があると思いました。
教育問題については本当にいろいろ思うことがあるのですね。
コメントを拝見してその思いが分かります。
私も、勿論親として、今の教育に大いに疑問を感じている一人です。
特に北海道は、私立が少ない。公立校中心の世界にもかかわらず、組合(北教組、札教組)が強く、教師の営利主導の世界です。
福餅さんのお嬢さんの中学のような先生が多いこと!
勿論ゆとり教育とか総合学習も私は反対です。
ゆとりは、教育にたいして熱意のない教師に「ゆとり」を与え、総合学習は教師の趣味と自己満足を満たすものでしかないと思うからです。
基礎学力の低下と人間性の低下は、公立校、教師の倫理観、人間性の低下から生まれたと思います。勿論制度の悪さも明らかです。
10年も前にイギリスで間違いを認めた制度を導入してどうなるというのです!
ココ(公立教育機関)が頑張らないと、なにも変わらないと思うのです。
親にお金がなくても、やる気と才能を持った人材を育て上げられる社会でなくてはいけないと思います。
感性のかけらも感じられない小泉さんや阿部さんが首相になるような国ですからね。人間らしい人、感性のある人を育てるのが教育の基本でしょ。医者だって、教師だって、科学者だって、あらゆる仕事においてベースとなるその人の感性がまともであれば、今現実に頻発している情けない犯罪や卑劣な行為の大半は起こらないと思います。知識や理念は大切なものだけど、その根底にちゃんとした感性がなければ、役には立ちません。むしろ小賢しいだけたちが悪い事になります。
芸術の香りがしない国。
そんな国になってしまいましたが、文化もまた戦いの一つですから、一人一人がレジスタンスのごとく毎日を生きなくては、子供たちの未来が可愛そすぎます。
子供たちを大きくしていくのが、本当に不安で怖い気がするときがあります。
でも、今の親世代(勿論教員、政治家、官僚が筆頭ですが)の問題のように思えます。